聴衆に反応を強制しても本当の対話にはならない
聴衆にリアクションを求めるより言葉で思いを伝える指導を
※これは教員向け(教え方)の記事です。

英語スピーチや プレゼンの発表中に、聴衆にリアクションを求めるスピーカーがいます。挙手させる、起立させるなど、一見すると聴衆との双方向の対話が演出できたように見えますが、それは対話ではなく強制した結果です。こうした強制的対話を生徒に勧めるのは慎重になった方が安全です。以下、少々長くなりますが指導者の皆さんと要点を共有します。
「何となく盛り上がった感じ」は話者の自己満足
"Close your eyes, and imagine..." スピーチでよく耳にするフレーズです。このように聴衆に何らかの動作をさせること自体は悪くありません。ただ、それがスピーチのメインテーマと本質的な関わりがある場合に限ってのお話です。
スピーチコンテストの審査員をしていると、スピーカーからあらゆる類の「お願い」を受けます。目を閉じたり手を挙げたりはカワイイ部類で、立ち上がったり、クイズに答えたり、さらには手話の真似からリラックス体操まで…。
話者にとっては「わずかこれだけ」のお願いかもしれませんが、何人ものスピーチを聞く聴衆や審査員にとっては、スピーカーごとに「お願い」が続きます。
聴衆が指示に反応して会場を盛り上げたつもりでも、それは話者の自己満足です。話者が強制する限り、本当の「聴衆との対話」にはなりません。話者の命令がスピーチの核心的メッセージを構成する要素なのかを再確認する必要があります。
「本当に、それって必要かな?」と問いかける
私は弁論大会の審査員として、基本的にこのような「お願い」には一切応じません。もしその動作が本当に重要なのであれば、聴衆がわざわざ動かなくても、話者から十分なメッセージが汲み取れるはずだからです。
こうした「お願い」は、特に高校生や中学生のスピーチ大会に多い印象があります。何となく会場が温まる気がするから、という理由もありそうです。もし先生が指導中の生徒から、何らかの動作命令をスピーチに採り入れたいという相談があった場合、どう反応されますか?
この手の演出について、教員が与えるべき助言の最適解は「本当に、それって必要かな?」です。
聴衆は話者の操り人形ではありません。強制的に引き起こされた動作やリアクションが、聴衆との真の連帯感を演出することはありません。もし先生方が、そのような演出を指導される際には、その動作指令がスピーチの本質的価値を高めているかを、生徒とともに慎重に検討してください。
本質的価値があるか、時間の無駄かは、紙一重。
以前、あるコンテストにおいて、そのような演出を一部評価するコメントをした審査員がいました。しかし、これはあくまでも聴衆に迫ろうとする「姿勢や気持ち」を評価したのであって、動作命令そのものが評価されたわけではありません。この点は指導者も誤解しやすいところです。
繰り返しますが、大切なのは「聴衆に指示する動作」と「話者のスピーチの核心的メッセージ」との結びつきです。
たとえば、最低限の手話を学ぶ大切さを訴えるスピーチであれば、重要な単語の手話を聴衆に実演させる程度なら、主張内容との結びつきが保たれるので許容範囲でしょう。ただこの場合でも、単語を替えて依頼を繰り返したり、クロージングで再度同様の依頼をすると、聴衆も審査員もうんざりです。聴衆は、話者からの命令を受けたくて会場に来ているわけではありません。
スピーチコンテストは、言葉で訴える力を競うイベントです。リアクションの強制は、核心的メッセージの補強のみに限定する方が安全です。聴衆にそれ以上の負担をかけると「言葉の大切さ」が邪魔されて(disrupting)、聴衆の集中力が失われ(distracting)、デリバリーで明らかな減点になります。
聴衆に反応を求め、聴衆がそれに呼応しただけで、審査員がその行為を好意的に評価することはありません。
話者が率先して手本を演じればスムーズ
それでも生徒が何らかの「対話」の演出を希望する場合には、聴衆に動作を強制する代わりに、話者自身にその一連の動作を演じさせてはどうでしょうか。目を閉じるのも、手話も、立ち上がる(背伸びする)のも、ボディ・ランゲージ(body language)の一環として違和感なくスピーチに統合できれば、デリバリー全体の評価が向上する可能性はあります。それでもやりすぎは減点です。
強制的に聴衆の「反応してくれた感」を引き出しても、そのために消費した時間を上回る価値はありません。私のような審査員が強制的なリアクションの呼びかけに応じないのも、そこに本質的価値はないだろうと考えるからです。
「本当に、それって必要かな?」という問いかけは、我々教員自身への問いかけでもあるのです。